以前に図書館で色々と調べていたら、白岡市 柴山にも山車があった事が分かった。
でも、今は存在しない柴山の山車。
山車と囃子はどうしても、切っては切れない物なので、山車を追えば囃子につながる!
少し、色々と柴山の事を調べる事にしました。
柴山の山車はどうして無くなった?
白岡市柴山は、見沼代用水を挟んで蓮田市井沼・上平野・高虫と向かい合う地域であり、私が現在伝承している上平野や井沼の囃子とも非常に近い関係にある地域である。
現在では柴山の囃子の音色も変化しているが、かつては「柴山流」と称され、久喜提灯祭りをはじめ、各地の祭礼で演奏されていたと伝えられている。
また、柴山に関する資料を調査していく中で、かつては立派な山車を所有し、耕地内を曳き回していたという記録も確認できた。
しかし、その山車を柴山の耕地で曳くと「不作になる」「良いことが起きない」などと言われるようになり、最終的には柴山枝郷である小塚へ譲られたと伝えられている。
そこで、実際に現地調査を行い、柴山の関係者へ聞き取りを行った。
柴山囃子連の方からは、
「立派な山車があったという話は聞いたことがある」
との証言を得ることができた。
さらに、
「地元で山車を曳くと良いことが起きないってことで、隣の小塚へ譲ったんだけど、小塚は“譲ってもらった”じゃ聞こえが悪いってんで、柴山が小塚との境界で捨てたことにしたんだって」
という話も聞くことができた。
このことから、当時の柴山と小塚の間には、地域的な対抗意識や体裁の問題が存在していた可能性もうかがえる。
なお、その山車は現在も、旧菖蒲町柴山枝郷小塚の八雲神社隣の倉庫に保管されているとされる。
柴山枝郷 小塚の山車情報から年代を探る
柴山から小塚へ山車が渡ったという話があったことから、旧菖蒲町側の資料をもとに山車の由来を調べるため、埼玉県立図書館などで資料調査を行った。
その中で、八雲神社の山車について、次のような記述が見られた。
「八雲神社の山車は、四つ車で屋上に楠木正成の人形をのせています。山車の幕は、緋色の地に竹と虎を刺繍したもので、明治十三年、小塚囃子連によって付され、大正八年修繕が施されています。山車は主に戦前、七月十五日の祭礼(天王様)に組み立てられ、橋戸、大平橋のコースで引き回されていました。梁の墨書きから明治十二年の制作と考えられます。町内で人形を乗せる唯一の山車であり、民俗資料として重要です。」
梁の墨書きには「明治十二年」と記されていたようであるが、資料では「制作と考えられます」と表現されている。
そのため、この明治十二年という年代が、山車そのものの完成年を指すのか、あるいは柴山から小塚へ譲渡された時期を示すものなのかは、現時点では断定できない。
また、小塚側では、柴山から譲り受けたという体裁をあまり表に出したくなかったとも伝えられており、そのためか、旧菖蒲町側の資料には「譲渡」に関する記述は確認できなかった。
しかし、現時点で確認できる情報を整理すると、
- 梁の墨書きに「明治十二年」とあること
- 山車幕が明治十三年に小塚囃子連によって新調されていること
などから、明治十二年頃に小塚へ山車が渡り、翌十三年に小塚側で幕を整備した可能性も考えられる。
そう考えると、山車自体は明治十二年以前に柴山で製作されていた可能性も十分にある。
また、蓮田市上平野の山車についても、資料には明治十年頃の製作と記されており、同時期に上平野や柴山で山車文化が成立していたとしても不自然ではない。
当時の柴山と上平野は、見沼代用水の伏越によって結びついた交通・物流の要所であった。
記録によれば、船は伏越を通過できなかったため、上平野側で荷を下ろし、柴山側で積み替えを行っていたという。
そのため、当時の上平野・柴山周辺には、多くの商人や職人が集まり、大変な賑わいを見せていたと考えられる。
現在でも、柴山周辺にはその名残が見受けられる。
さらに、上平野の山車彫刻は、白岡市篠津の山車も手掛けた立川氏によるものであり、篠津の山車同様、豪華な彫刻や彩色が施されている。
そして、上平野の山車と小塚の山車を比較すると、彫刻様式に共通点が多く見られることから、小塚の山車についても、同系統、あるいは立川氏による彫刻である可能性が考えられる。
柴山枝郷 小塚では、伊奈町から神輿も購入していた!
別件で資料調査を進めていたところ、伊奈町の資料の中に興味深い記述を確認した。
資料には、次のように記されている。
「小針内宿では、七月十四日に天王様の祭りを行ってきた。祇園祭とも言ったが、近年では夏祭りと呼ぶようになってきている。古くから神輿もあって渡御したものであった。この神輿は大きいので有名な神輿であったといわれるが、明治十二年に菖蒲の小塚(柴山枝郷)に売ってしまったという。この神輿は、現在菖蒲町指定文化財になっている。」
ここで再び「明治十二年」という年代が登場した。
しかし、その後『ふるさと伊奈』という別資料を確認すると、次のような記述が見られた。
「この御神輿は現在、小塚の八雲神社(天王社)に納められています。大正十四年七月には修繕もされていますが、枠組みの柱には、今も『明治四十二年小針内宿』と書かれた文字が残っています。なお、菖蒲町でも、以前は七月十五日の祇園祭には、血気盛んな若衆がその御神輿を担ぎ、また山車を引きながら柴山方面まで廻ったそうですが、今では担ぎ手もなく、八雲神社に飾るだけとなっています。」
この資料では、「明治四十二年」という年代が確認できる。
そこで伊奈町役場へ問い合わせを行ったところ、『ふるさと伊奈』の方が古い資料であり、その後の資料作成時に「四」の字が脱落し、「明治十二年」と誤って記載された可能性が高いとの回答を得た。
そのため、御神輿については「明治四十二年」が正しい年代と考えられる。
このことから、小塚では、
- 明治十二年前後に柴山から山車を譲り受けた可能性
- 明治四十二年に伊奈町小針内宿から御神輿を購入した事実
が存在していたと考えられる。
また、資料には、小塚の祇園祭において、御神輿を担ぎながら山車を曳き、柴山方面まで巡行していたという記述も見られる。
このことは、小塚と柴山との結びつきが、山車だけでなく祭礼そのものにも深く関係していた可能性を示しており、当時の地域間交流を考える上でも非常に興味深い資料である。
小塚の祭り囃子について
小塚のお囃子についても、各種資料や聞き取りをもとに調査を行った。
小塚の囃子は、旧菖蒲町内だけでなく、鷲宮方面にも伝承されていたことが確認できる。
現在、比較的しっかりと伝承が確認できるのは旧鷲宮町の旭町であり、近年までは旧菖蒲町の下町でも演奏されていたようである。
また、以前は存在していたものの、現在では確認が難しくなっている地域として、旧菖蒲町の小林や栢間などがある。
小林については、久喜提灯祭りに招かれ、山車に乗って演奏していたという資料も確認できた。
小塚のお囃子は、蓮田市上平野などと比較すると、演奏の構成や表現に若干の違いが見られる。
しかし、基本となる「地」や「切り」などは、抜きバチを除けば共通点が多く、基本構造は非常に近い。
系統についてであるが、以前、柴山の古い演奏を録音したテープを聞かせてもらったことがある。
その印象としては、基本の叩き方は柴山のお囃子が土台となっており、そこへ独自のアレンジを加えたものが、小塚のお囃子になっているように感じられた。
山車と囃子は本来セットで伝承されることが多く、山車と囃子のどちらが先に伝わったのかは断定できないものの、小塚のお囃子も柴山から伝承された可能性が高いと推測している。
一方で、小塚囃子連が掲げている「木ノ下流」については、いくつか疑問点も存在する。
資料を調査すると、
「神社の祭典でたたいている太鼓は、天保のころ(1836~1844)に大宮市木下から小塚の○山○○家へ婿養子に来た惣五郎という人が教えたものである」
という記述が見られた。
しかし、木ノ下流が成立したのは江戸時代末期以降と考えられており、天保年間という年代とはやや整合しない印象を受ける。
また、現在小塚で演奏されている囃子と、一般的に知られる木ノ下流の演奏内容は大きく異なっている。
この点については、関東各地でよく見られる「古囃子」と「新囃子」の関係が影響している可能性がある。
古くから地域で演奏されていた地囃子(古囃子)の上に、明治以降に流行した流派性の強い新囃子を後から習得するという例は各地で確認されている。
木ノ下流は、江戸神田囃子を基に改良された新囃子系統であり、上平野・柴山・小塚などで演奏されていた古囃子とは、構造そのものが異なる。
一般に、新しく流行した流派性のある囃子を「新囃子」と呼び、それ以前から地域で演奏されていた囃子を「古囃子(ふるっぱやし)」と呼ぶ。
古囃子は比較的単純な構造であるため、見様見真似でも伝承されやすい。
一方、新囃子は組曲的構成を持ち、曲数も多く、さらに「ツケ」と呼ばれる締太鼓二丁を左右別々に絡めて演奏するなど、習得難易度が高い。
そのため、新囃子だけが伝承途絶してしまい、結果として古囃子のみが地域に残るという現象が各地で起きている。
こうした事情から、本来は古囃子を演奏していた地域であっても、後から習得した新囃子の流派名だけが残り、古囃子までも同じ流派として認識されてしまうケースが存在する。
小塚についても、同様の経緯を経て、現在「木ノ下流」という名称が残っている可能性が考えられる。
また、資料に見られる「天保のころ大宮の木下から…」という記述についても疑問が残る。
『埼玉県の民俗芸能(詳細調査報告書)』には、
「明治時代、大宮市の木下から婿入りした人が伝え、近隣に教え広める。木下流。」
と記されている。
明治時代であれば、木ノ下流が上尾・桶川・北本など各地へ広がっていく時期とも一致し、時代背景として自然である。
そのため、「天保」という年代については、何らかの形で後年に書き換え、あるいは誤記された可能性も考えられる。
参考資料
- 平成4年『埼玉県の民俗芸能 埼玉県民俗芸能緊急調査報告書』
- 平成8年『埼玉の祭り囃子6 北埼玉・南埼玉・北葛飾郡地方編』
- 平成10年『埼玉の神社 北足立・児玉・南埼玉』
- 平成18年『菖蒲町の歴史と文化財 資料編』
柴山枝郷は柴山から分かれた?
小塚について調査を進める中で、資料には「柴山枝郷(しばやましごう)」という表記が見られた。
この「枝郷」は、「えだごう」とも読み、本郷から分かれた集落を指す言葉である。
これに対し、元となる中心集落は「本郷(ほんごう)」と呼ばれる。
つまり、
- 柴山 = 本郷
- 小塚 = 枝郷
という関係であったことになる。
では、小塚はいつ頃から「柴山枝郷」となったのか。
調査したところ、安政二年(1855年)頃には、すでに「柴山枝郷」として分かれていたようである。
逆に言えば、それ以前は同じ「柴山村」であった可能性が高い。
このことを踏まえると、以前から伝承されている、
- 柴山から小塚へ山車が渡った話
- 「譲ってもらった」ではなく、「境界へ捨てたことにした」という話
なども、単なる偶然ではなく、元々同じ村でありながら、後に分かれた地域同士の微妙な関係性が背景にあった可能性も考えられる。
特に、祭礼や山車は地域の象徴であり、村の格式や誇りにも深く関わる存在である。
そのため、山車を「譲られた」という形よりも、「拾った」という形にした方が、双方にとって体裁が良かったのかもしれない。
もちろん、これは現時点では推測の域を出ない。
しかし、柴山と小塚の関係を考える上で、「本郷」と「枝郷」という歴史的背景は、非常に興味深い要素であると思われる。
最後に
まだ、調査中ですが徐々に分かった事を書いていきたいと思います。

